2009年06月17日

2時間まったく省略なしで演ずると3時間もの

通常は2時間、まったく省略なしで演ずると3時間もの長尺となるこの歌舞伎は、たった一幕「三浦屋格子先の場」だけで成り立っている。場面転換もなく、最初から最後まで同じ場所で繰り広げられる。この演目が物語性を重視しない、本質的に見世物である所以である。

花川戸助六(はなかわど すけろく)という侠客に姿をやつした曾我五郎は、源氏の宝刀「友切丸」を探すため吉原に通っている。様々な男が集まる吉原で、遊客にわざと喧嘩を吹っ掛けて刀を抜かせようというのである。そこに助六を情夫にしている花魁の揚巻(あげまき)と、揚巻に言い寄る髭の意休(ひげの いきゅう)が登場。意休が友切丸を持っていると勘づいた助六は刀を抜かせようとするが、なかなかうまくいかない。そこへ白酒売に身をやつした兄の曾我十郎がやってきて弟に意見するが、助六の真意を知った十郎は自らも喧嘩を売る稽古を始める。

やがて揚巻が一人の侍を伴って再登場。助六はその侍に喧嘩を売ろうとするが、驚いたことにその侍は、兄弟を心配してやってきた母の満江であった。満江は助六に破れやすい紙子の衣を着せて、激しい喧嘩を戒めると十郎とともに帰ってゆく。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

舞台には再び意休が登場。意休は実は助六が曾我五郎と見抜いており、友切丸を抜いて源氏を裏切ることをそそのかす。助六はもちろん応じず、意休(実は平家の残党・伊賀平内左衛門)を斬り、友切丸を取り返して吉原を抜け出す。

以下では、それぞれの場をさらに詳細に解説してゆく。いずれも市川宗家が助六を勤め、河東節で「出端の唄」を語る、『助六由縁江戸桜』の場合である。

口上 [編集]
河東節が演じられる場合は、この歌舞伎は口上から始まる。役者が一人舞台中央に正座し、客に挨拶するのである。團十郎や海老蔵が助六を勤める場合は、この口上は市川宗家の門弟筋にあたる家の役者が行う。当代の團十郎が助六を勤めた舞台では、そのほとんどで当代の段四郎がこの口上を行っている。

一通り客への挨拶を終えた後、役者は舞台上手に特設された黒御簾の中の河東節連中に向かって、ひれ伏すような低姿勢で「それでは河東節御連中様、なにとぞお始め下されましょう」と最大の敬語表現で呼びかける。これは河東節が単なる出演者でなく実質的に客であることの証明で、それも通常の客よりもよほど大事にされる上客であることを示している。

並び傾城の出 [編集]
かつては両花道より金棒引きが登場し、河東節に乗って調子をとったが、大正時代を最後にして取り除かれた。そのため両花道は作らずに通常の花道だけになっている。ここで天保年間から昭和初期まで外郎売の言い立てがあったが、これも取り除かれて久しい。くわんぺら門兵衛・白玉と、白玉と白酒売のやりとりも取り除かれている(この場面で白酒売は白酒を売り歩き、これで客はこの男が白酒売であることがわかるわけだが、それが取り除かれているのである)。現在は、並び傾城が登場し、割り台詞を言った後に揚巻の出となる。

2009年05月31日

発掘 発見された木簡と価値

居延漢簡 - 前述。新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。
馬圏湾漢簡 - 1979年、敦煌市西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。
走馬楼呉簡 - 1996年、長江以南、湖南省長沙市で発見される。三国時代呉の嘉禾年間(232年-237年)の紀年を含む、木簡が数万点、竹簡は約2000点が出土した。その多くは、契約文書類である。
敦煌懸泉置木簡 - 敦煌の東方にある、前漢中頃より魏晋代の郵便施設である懸泉置から出土した、20000点余の木簡。

日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていた。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988?1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものだが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多い。

日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で奈良国立文化財研究所が平城京木簡の分類に際してとった13または18の型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、短冊形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、長さ20センチメートルから30センチメートル、幅2センチメートルから4センチメートルが多いが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける。用途と形状は密接にかかわっている。

文書木簡は、7世紀後半から、奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価で需要を満たすに足りなかったためと考えられる。日本では竹簡は作られなかった。
転職 バイク 生活習慣病 墓石 わきが 事務用品 ステイ 信越北陸 外国語 公園 メイク フランチャイズ 香水 就職 レストラン わきが タロット アロマ ギフト 家庭教師 仏具 語学 近畿東海 ネイル 旅行 しみ取り 内職 離婚 雇用 ブログ 美容整形 古着 警備 アロマ 菜園 学習指導 乗物 音楽 キャンプ場 ケア エステ メイク 興信所 旅行 アロマ キャッシング 美容整形 植物 学校 インテリア

文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書と、日常事務の帳票の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。文書木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。

付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものである。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札と、保管される物に付けておく物品付札があった。当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、これを貢進物木簡(貢進物付札)と呼ぶ。要は荷札なのだが、この時代のものは量が豊富なだけでなく、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。

その他には習字、落書き、呪符、将棋の駒まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。題箋(題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。

10世紀より後になると文書木簡は見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、座の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。

朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで1975年に新羅の王宮、月城の雁鴨池から40点が出土し、三国時代と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。

2009年04月27日

トロヤ群

トロヤ群(トロヤぐん、Trojan asteroid)とは、木星の公転軌道上の、太陽から見て木星に対して60度前方あるいは60度後方、すなわちラグランジュ点付近を運動する一群の小惑星のこと。

トロヤ群に属する小惑星は2007年8月現在、2124個(L4のもの1079個(そのうち小惑星番号のあるものは640個)、L5のもの1045個(そのうち小惑星番号のあるものは536個))が確認されている。

火星や海王星の軌道上にも同様の小惑星が発見されている。なお、海王星のトロヤ群はエッジワース・カイパーベルト天体が海王星の重力に捕らえられたために現在の軌道になったと考えられている。地球においては現時点では発見されていない。なお、アテン群である (3753) クルースンは軌道が地球のL4とL5と重なり、地球と1対1の共鳴軌道であることがわかっている。これは特殊なタイプのトロヤ群であるとも言える。

飲料水・教材関連ショップチャンネル全国情報ガイド
通信教育・生涯学習関連教育学びサイト
キャンプ場・ホテル関連観光タウンナビ
しみ取り・エステ関連コスメグッツ検索エンジン
金融・キャッシング関連ビジネスワールド情報
実益・生活関連生活・暮し情報
リフレクソロジー・薄毛関連女性の健康COM
墓地・ペット関連プライムショッピング全国情報ガイド
学習・資格関連教育ジャンプ紹介
旅館・旅館関連国内 宿泊ナビ

なお、土星の衛星の間にも同様の関係を持つもの(テティスに従うテレストとカリプソ、ディオネに従うヘレネ、ポリデウケス)が発見されており、トロヤ衛星 (Trojan moons) と呼ばれている。

トロヤ群の名前は、この群に属する小惑星で最初に発見(1906年)されたものがアキレスでありギリシア神話のトロイア戦争の勇士であるアキレウスの名前が付けられていることに由来し、以後この群に属する小惑星にはトロイア戦争に登場する兵士の名前が付けられている。

また、木星に先行する前方ラグランジュ点 (L4) に位置する小惑星を「ギリシア群」、木星に追随する後方ラグランジュ点 (L5) に位置する小惑星を「トロヤ群」と呼んで区別することがある。実際、「ギリシア群」にはギリシア軍の兵士、そして「トロヤ群」にはトロイア軍の兵士の名が付けられている。

ただし、ヘクトルはこれらの区別が行われる前に命名されたので、由来となったヘクトルがトロヤ側にもかかわらず「ギリシア群」に位置する。同様にパトロクロスは由来となったパトロクロスがギリシア側にもかかわらず「トロヤ群」に位置する。

主要なトロヤ群小惑星
木星のトロヤ群
ギリシア群…詳細はen:List of Trojan asteroids (Greek camp)を参照。
(588) アキレス
(624) ヘクトル…トロヤ群最大の小惑星 (370×195km)。上記参照。
(911) アガメムノン
トロヤ群…詳細はen:List of Trojan asteroids (Trojan camp)を参照。
(617) パトロクロス…メノイティオスという衛星を持つ。上記参照。
(3317) パリス
火星のトロヤ群(4個)
(5261) エウレカ…L5
(101429) 1998 VF31…L5
(121514) 1999 UJ7…L4
2007 NS2…L5
海王星のトロヤ群(6個)
2001 QR322…L4
2004 UP10…L4
2005 TN53…L4
2005 TO74…L4
2006 RJ103…L4
2007 VL305…L4

2009年04月11日

かに星雲

かに星雲 (M 1, NGC 1952) はおうし座にある超新星残骸で、地球からの距離はおよそ7000光年。現在も膨張を続けており、中心部にはかにパルサーと呼ばれるパルサーの存在が確認されている。

超新星自体は1054年に中国や日本の記録に残されており、藤原定家の日記に引用されている。

1054年に出現した超新星(SN 1054)は、中国の記録『宋史』「天文志」に客星(突然現れた明るい星)として記され、仁宗の治世である至和元年五月己丑(1054年7月4日)に現れ嘉祐元年三月辛未(1056年4月5日)に消失したとある。日本でも、藤原定家が自身の日記『明月記』に記録をひいている[1]。また著者不詳の『一代要記』にも記録が残っている。さらに、1000年頃にアメリカ・インディアンによって描かれたアリゾナの壁画に残されている星の画を、この超新星とする説もある。超新星の出現当時は、金星ぐらいの明るさになり、23日間にわたり昼間でも肉眼で見えた。夜間は後2年間も見えていた。

超新星の残骸であるかに星雲は、1731年にイギリスの開業医でありアマチュア天文家のジョン・ベヴィス (John Bevis, 1695-1771) によって発見された。ロス卿 (William Parsons, 1800-1867) の観測で微細なフィラメント構造がカニの足を思わせることからカニ星雲と命名された。ただ、ジョーンズのようにこのスケッチはむしろパイナップルのように見えるという人もいる。

かに星雲は、彗星を観察していたシャルル・メシエが、彗星と紛らわしい天体としてまとめたメシエカタログの1番目に収録されている。メシエ天体では唯一の超新星残骸である。メシエは1758年9月12日にかに星雲を彗星の追跡中に発見した。メシエは「牝牛の南の角の上にある、星雲状のもので星を含まない。白っぽくローソクの炎のように長く伸びている。1758年の姿勢を追跡中に発見した。-またベヴィス博士が1731年発見したとする私信がある」と記している。

1774年ボーデは「星のない小さな星雲状のもの」とした。ジョン・ハーシェルは「星団で分解できそう」とした。1844年ロス卿は「もはや分解されない楕円形の星雲。おもに星雲の南端からおどりでた多くのフィラメントが見えた。普通の星団とは異なり不規則であらゆる方向に向かっている。おそらく強力な力が他のフィラメントを押し出したのであろう。これが星団の形を作ると思われる」とした。このとき、最初にM1のフィラメント構造が発見された。

その後、ルンドマークが900年ばかり前に爆発したことを示唆し、写真観測から年ごとに膨張しつつあることを明らかにした。現在でもガスは毎秒1100kmの速さで四方に広がっている。また、エドウィン・ハッブルやダンカンは1054年に出現した超新星の残骸であることを確認した。1994年のHSTによる観測で、フィラメントはプラズマで覆われていることが明らかになった。ロス卿の言うとおり、このプラズマが外側の濃い星間物質を押してフィラメント構造が発達している。

かにパルサー [編集]
かに星雲の中心にある星は、かにパルサーと呼ばれるパルサー(中性子星)である。1969年に発見された。 直径は約10km。光度は16等級。 かにパルサーは1秒間に30回という高速回転をしており、33 msの周期で電波やX線を出し、また可視光線で星雲全体を照らしている。 非常に強いX線を放出しており、X線天文学において時間のキャリブレーションに使われる。

観望 [編集]
双眼鏡では微かな光斑に見える。口径5cmの望遠鏡では三角形の白い雲のように見える。口径10cmでは条件が良いときには内部に線が見えるという。またマラスは色がやや緑がかっていると記している。(天体写真の色は人間の眼にあまり見えないHαなどの光を強調してしまうので、肉眼で見たものとは異なる場合が多い)見え方は空の状態に依存する天体でもある。 口径20cmの望遠鏡では佐渡島のような形に見え、内部の模様も見え始める。口径30cmでロス卿の言うフィラメント構造が見え始めると言われている。 中心部の中性子星は口径50cmの望遠鏡で見ることができる。最良の環境では口径25cmの望遠鏡で見ることができるという人もいる。

キネテ 紅葉の旅 菊座おり しぼり キューシ チェリー シンボル オートキプ ニース オレン よぶすま ラン タイト フォール オムレツ フーガ グマー ディム ドナルドック かみす ラビ ふじ豆 エッグ エッジボール レプラ タロッ 全国通 タウン ガーネット スイッチ デニム マハラ ロール コロンブス タスク フェーン パツ バルカン スケッチ タロー プレッピ ロッタリ メッキ しとみや スイー ロード ハドロン ゆうじょ テーベ


2009年03月27日

第二ブルグント王国

文献ではその理由を見つけることができないが、ブルグント族は再びフォエデラティの地位を与えられ、443年、将軍アエティウスによって「サパウディア」(Sapaudia)地域に再び移住させられた[Chronica Gallica 452]。正確な場所は定かではないが、サパウディアは現代のサヴォイに対応し、ブルグント族はおそらく「ルグドゥヌム」(Lugdunum、現代のリヨン)の近隣に住んでいたと考えられている[Wood 1994, Gregory II, 9]。グンダハールの息子と考えられている新しい王グンディオク(Gundioc、Gunderic)は、父の死により支配権を確立した[Drew, p. 1]。 歴史家プライン(Pline)は、グンディオクはソーヌ、、サヴォイ、ドーフィニ、プロヴァンスの一部の地域に君臨した、と述べている。グンディオクはヴィエンヌをブルグント王国の首都と定めた。534年にフランク族によって王国が滅ぼされるまで、計8人のグンダハール家出身のブルグント王が支配した。
ナビイサク シュレッ ながしの ステータス プロト イ短調 スプリ ジスト タープ ルテイン リストア スープ オプティ フェア マグナム プロトン メラノ プロローグ オール アップ ジボソン シュプ チャプチ レット サルコメア シアン ディア ピクチャ オムガイド インソ オーナ アマ ビルダー オペック バック らんこし ブエノス コッヘル フォー シルバー ビジホン たまごいろ パーマ ヒサカ ジャンル ハスキ アリスム 便利に生活 クロス バッファ

王国滅亡までの最後の10年間、ブルグント族はローマの同盟者であった。451年、アエティウス、西ゴート族と他部族との同盟と共に、カタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)でアッティラと戦った。455年、サーブ族と戦うため、グンディオクと彼の兄弟キルペリックI世(Chilperic I)は、テオドリック2世(Theodoric II)にスペインまで随行したが、これはブルグント族と西ゴート族の同盟がいかに強力であったかを示している[Jordanes, Getica, 231]。

帝国への野望 [編集]
『infidoque tibi Burdundio ductu』の曖昧な記述によると[en:Sidonius Apollinaris in Panegyr. Avit. 442.]、455年、ヴァンダル族によるローマ略奪に先立つ混乱の中、無名のブルグント族のリーダーが裏切り、ローマ皇帝ペトロニウス・マクシムス(Petronius Maximus)を殺害したらしい。貴族リキメル(Ricimer)もまた非難された。この事件はブルグンド族とリキメルの関係を示す最初のものである。リキメルはおそらくグンディオクの義兄弟で、グンドバットの叔父であったと考えられている[(John Malalas, 374]。

明らかにブルグント族の権力は増大し、456年には地元のローマ元老院議員と領土拡張と権力分担と交渉した[Marius of Avenches]。

457年、リキメルは他の皇帝アウィトゥス(Avitus)を破ってマヨリアヌス(Maiorianus)を王位につけたが、この新しい皇帝はリキメルとブルグント族にとって役に立たなかった。即位の翌年、マヨリアヌスはブルグント族が2年前に得た土地を奪った。さらに独自の行動を行う兆候を見せたが、461年、リキメルによって殺害された。

その10年後の472年、西ローマ皇帝アンティミウス (Anthemius)の義兄弟となったリキメルは、グンドバットと共に義父の殺害を策略し、グンドバットは皇帝を斬首した[Chronica Gallica 511; John of Antioch, fr. 209; Jordanes, Getica, 239]。リキメルはオリブリオス(Olybrius)を皇帝に任命したが、驚くべきことに、2人とも2か月以内に病死した。グンドバットは、彼の叔父リキメルの貴族そして国王擁立者としての地位を継承し、グリュケリウス (Glycerius)を王位に就けた[Marius of Avenches; John of Antioch, fr. 209]。

474年にはブルグント族のローマ帝国に対する影響力は失われていた。グリュケリウスは ユリウス・ネポス(Julius Nepos)のために退位し、グンドバットはおそらく彼の父グンディオクの死によってブルゴーニュへと戻った。この時あるいは少しの後、ブルグント族の王国はグンドバットと彼の兄弟であるゴディギゼル(Godigisel)、キルペリック2世(Chilperic II)、グンドモル1世(Gundomar I)によって分割された

2009年03月12日

ポンペイ

ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、1世紀までナポリ近郊にあった都市国家。ヴェスヴィオ火山の大噴火により、79年に壊滅した。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。その遺跡は世界遺産になっている。

末期はローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えた。最盛期の人口は約2万人といわれる。噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の大多数はローマなどに逃げたが、助からなかった市民も多くいた。
ダーラン サフィ サウンド サイド バング レウイ ルンペン レバノン ブラック シード バレー ソフトダ ロッシュ メロン シャーリ おおばなさ クリーン きゅうせき ケマン カイドウ くしびき ハーフ フェア ビリティ ユーエ モッツ ルヒル ヒューズ ライダー 幸福 リンクス マチン ユッケ スリラー YELLOW テレカ ゲート セッション 風の足跡 オンシ 艶姿 検索ジム バースト テレフ ハック プライ ダバード ワクシニア オーバ モンテ

軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙に巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによる当時の記述により知られている。

また現代のポンペイは人口25,751人のイタリア共和国カンパニア州ナポリ県のコムーネの一つであり、その中心部は古代遺跡とは少し離れている。

イタリア語での発音はeにアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。

歴史
イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀、サルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後、紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが現在、この説を裏付けるものはない。

カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし、紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服された。これによりポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは、港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後、商業都市として栄えた。

紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲った。これにより、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まった。

当時の、唯一の信頼できる記録は、死亡した大プリニウスの甥の小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂、火口付近から、松の木のような形の暗い雲を見た。雲は山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ。そして雲は火口から海までを覆った。小プリニウスが書いたこの現象は、現在では火砕流として知られる。これは、火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる現象である。プリニウスは、爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れた、と述べた。さらに、灰がどんどん積もり、彼がいた村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき、「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami)という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの次の記述は、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかった、と続いている。大プリニウスはこの現象を調査するため、船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。二酸化炭素中毒によるもの(訳者註:二酸化硫黄のことか?)と現在では考えられている。
壊滅後は二度と集落が作られることはなかったが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれ、散発的に古代の品が回収され、下に都市が埋まっていることは知られていた。

その後、ヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)は1738年に、ポンペイは1748年に再発見された。これらの町は建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために、この後断続的に発掘された。Fontana(フォンタナ)という建築家が、サルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから、150年が経過していた。この時点まで、ヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。この項目にあるような木製やろうのプレートは、非常に安価に作成できる広告として当時広く使われた。現代の日本のホウロウ看板広告に似ている。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンタナによって発掘されたが、将来、考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンタナ自身が埋め戻したとされる。ただしこれには明確な証拠はない。

ポンペイで有名なのは、男女の交わりを描いた絵で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテルMurecine」と呼ばれる。

ポンペイは、その後の修正がいっさいなしで、建造物や街区が当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の生きた時代のローマが、古代ローマのものをそのまま伝えていると誤認していた。しかし、ポンペイは、最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。

紀元79年の爆発のとき、逃げ遅れた人々は火山灰の中に埋もれて死んだ。後に発掘されたとき、遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。顔までは再現できなかったが、これらのうちのいくつかは、恐怖の表情がはっきり分かる。母親が子供を覆い隠し、火山灰から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も、生々しく再現された。

町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きは、当時のラテン語をそのまま伝える。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。ポンペイは確かに当時とても活気のある都市だった。

爆発時、町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また、彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場など。

2002年には、サルノ川河口で重要な発見がされた。ここにボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明したのである。これらの結果は続々と報告されつつある。

「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り、発掘されることになった。」という逸話は都市伝説のようである(この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山(フランス語の「山」をつけて「モンプレー」とも表記される)で起きた大噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流により麓のサンピエール市の住民約2万8千人がほぼ全滅し、生存者は警察の留置場に拘留されていた死刑囚と地下倉庫に隠れていた靴職人の2名のみであった)。 また、この町は19時間で消滅した。

町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただし主な産業はワイン醸造だったらしい。この土地は火山噴火まではぶどうの産地であった。港湾都市でもあり、商業も盛んであったことは、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることからも裏付けられる(現在はポンペイ周辺で水位が極度に下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また、当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。

2009年02月23日

GSXを除く全車両は6輪車だが

GSXを除く全車両は6輪車だが、いずれもティレル・P34のような前4輪・後2輪の形態を採用。同様にブーストはいずれも車体後部に2基搭載した形となっている。但し、アスラーダ系とガーランド系では、アスラーダが比較的大きなブーストポッドを車体左右末端に設けているのに対し、ガーランドは比較的小さなブーストポッドを車体中央部に寄せて設けているという差異がある。車体製造技術という点ではともかく、車体開発という点においてスゴウ自体の開発能力は定かでなく、アスラーダGSXは元より、スーパーアスラーダ01以降のアスラーダ、ガーランドともに、元々はスゴウ以外で開発、もしくはスゴウ以外で研鑽したクレア・フォートランの独力に負うところが大きい。エンジンは自社で製造していたが、アスラーダについてはエンジンパワーの不足を慢性的に抱える傾向があり、後にユニオンセイバー、GIOからの供給を受けるようになった。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク

アスラーダGSX
元々はミッシングリンクの開発部門においてサイバーシステム(CS)「アスラーダ」の実験を目的として開発された車両である。2015年初頭に、開発者である風見広之によって、CSアスラーダもろとも日本に送られ、富士岡クオリファイ直前にスゴウチームの手に渡る。スゴウにおいて追加パーツが製造され、それらと換装することで通常仕様であるサーキットモードのほか、荒れ地での走行用であるラリー仕様、高速モードのエアロ仕様へと変更が可能な設計になっており、あらゆる環境に適合できる汎用性を持つ。この車両に搭載されたCSアスラーダについては、後にサーキット・ラリー・エアロの3形態への変形機構を有するスーパーアスラーダ01にも問題なく適応しているため、パーツ換装によってこれらを実現するGSXに対してはオーバースペックなサイバーシステムであったと言える。エンジンはスゴウ製V10水素エンジンを搭載した。作品本編においては、風見ハヤトによって操縦され、2015年の世界選手権においては最終戦でこそ開発が進んだ他チームに先行を許したが、序盤戦においてはトップチームの車両に引けを取らない高性能を発揮した。レース用の3形態の他、水上走行を可能とするマリン仕様も存在する。
スーパーアスラーダ01
風見広之がCSアスラーダを搭載することを前提に独自に開発・製造した車両。サイバーフォーミュラ史上初となる3段以上の変形機構を有する車両で、サーキットモードのほか、エアロモード、ラリーモードに変形。2015年、イギリスにある風見広之の邸宅に保管されていたものがスゴウチームのクルーにより発見、CSアスラーダ及び同年にスゴウが開発したV12エンジンを搭載し、同年の世界選手権第5戦イギリスGPで初投入。初戦でいきなりポールトゥーウィンを飾ったのを皮切りに、最初の4戦で2勝、表彰台4回を記録するというという驚異的な性能を発揮。5戦目となったその年の第9戦でクラッシュし車体を破損させたため、最終第10戦の日本GPでは軽量化されたスゴウ製の新シャシー(01B)となった。このレースでは作戦の都合からウェイトハンデを背負っていたにもかかわらず、先行する他の強豪を寄せ付けずに抜き去って優勝し、風見ハヤトの初タイトルに大いに寄与した。
スーパーアスラーダ SA-01/C
スーパーアスラーダ01からラリーモードを撤去し軽量化を図り、ウィングなどのパーツに手直しを加えたマイナーチェンジ版。2016年開幕戦から投入されたが、長足の進歩を遂げた他チームに対して戦闘力を欠いたため、スゴウチームは苦戦を強いられることとなった。
スーパーアスラーダ AKF-11
風見広之と共にアスラーダ開発に携わったマシンデザイナー、クレア・フォートランによるスーパーアスラーダの大幅なアップデート版で、01に比べ、見た目にも空力的により洗練された形状となった。2016年第6戦で投入され、ドライバーである風見ハヤトがイナーシャルドリフトを身に付けたこともあって、特に決勝レースにおいて強さを発揮し、2019年最終戦まで4シーズンに渡って現役に踏みとどまった。2018年最終戦と2019年についてはユニオンセイバーからエンジンの供給を受けた。外観や性能に目に見えた変化はないが、シャシーは2019年までにAKF-11Cスペックまで進化した。
4シーズンで通算13勝を記録(2016年・2勝、2017年・4勝、2018年・3勝、2019年・4勝)。これはAKF-0(12勝。2020年・6勝、2021年・6勝)と2022年のAKF-0/G(6勝)とを別に数えるとすれば、スゴウの車両の中では最多勝利数となる。
「AKF」はアスラーダ(Asurada)、風見(Kazami)、フォートラン(Fortran)のイニシャルを取ったもの。AKF-11の「11」は『イレブン』ではなく、『ダブルワン』と読む。
ガーランド SF-01(及びSF-02)
2018年、風見を欠いたスゴウが第13回大会に向け投入した車両。クレア・フォートランによる設計で、アスラーダと異なり変形機構を有さないなど、クレアの独自色が強いマシンである。戦闘力は極めて高く、2018年シーズンにおいては2年目の新人アンリ・クレイトーによって駆られ、安定して好成績を残し、最終的にアンリにチャンピオンタイトルをもたらした。翌2019年はマイナーチェンジ版のSF-02が投入されたが、こちらは開幕戦こそ2位表彰台で終えたものの、以後は表彰台に届くことすらなく低迷して冴えない結果に終わった。
円形のステアリングではなく、ジョイスティックのような特殊な操縦桿を両手で握り使用する。
「SF」はスゴウ(Sugo)、フォートラン(Fortran)のイニシャルを取ったもの。
ガーランド SF-03
2020年にスゴウが投入した新型ガーランド。SF-01に引き続き、アンリ・クレイトーが駆った他、2020年シーズン序盤は風見ハヤトも使用した。扱いやすく速いガーランドの特性を引き継いだ正常進化型で、SF-02や2019年仕様のスーパーアスラーダAKF-11と比べれば高性能で、多年に渡って現役だが常にそこそこの戦闘力を保っている。
なお、サイバーフォーミュラ大全 (ISBN 4844356933) 等のミスにより「風見車の操縦桿は通常のステアリングに近い形状のもの」説が広まっているが、作中では風見はアンリ車と同じくスティック状の操縦桿を使用している。
ν-アスラーダ AKF-0
クレア・フォートランが開発したスーパーアスラーダのフルモデルチェンジ版。変形機構にレアメタル(形状記憶合金)を採用したことにより瞬時の変形が可能となり、空力的にもAKF-11に比べさらに洗練された。新機軸として、2段加速のブースト(スパイラルブースト)を備える。それらを除く基本的なスペックはガーランドSF-03と同じだが、変形機構を有するため重量的にはわずかに重い(設定ではSF-03の455kgに対しAKF-0は461kgであり6kg重い)。
変形機構はAKF-11と同じくサーキットモード、エアロモードのふたつだが、偶発的にリフティングターンのための変形が発見されたため、リフティングターンを用いる時は、その形状となる。エンジンはユニオンセイバー製を搭載していた2019年のAKF-11と異なりスゴウ製に戻ったが、これにより2021年はエンジンパワーの不足を慢性的な弱点として抱えた。
ν-アスラーダ AKF-0/G
AKF-0にGIO社製のエンジンを搭載したもの。2022年に投入された。AKF-0の最大の欠点であったエンジンパワーの不足を補い磐石かと思われたが、序盤でGIO社製エンジンの構造欠陥が発覚し、同年の前半戦においてスゴウは思わぬ苦戦を強いられた。
ガーランド SF-03/G
SF-03にGIO社製のエンジンを搭載したもの。2022年に投入され、2023年にはアンリ・クレイトーに代わって加入したエデリー・ブーツホルツによって操られることとなる。2022年シーズンについては、車体が異なるアスラーダに供給されたものとは仕様が異なるエンジンであったため、ガーランドがエンジントラブルに悩まされることはなかった。
AKF-0/1B ネメシス
ゲーム『新たなる挑戦者』に登場。車体はν-アスラーダAKF-0と同一だが、サイバーシステムとしてはアスラーダではなく「ネメシス」を用いる。スゴウのテストドライバー、司馬誠一郎はこのマシンとともに、2020年大会閉幕後に開催された「エクストリームスピード」に参戦した。カーナンバーは「0」であるが、その色はゲーム本編中では他のアスラーダ同様に赤であるのに対し、パッケージ中では緑になっているという差異がある。『Road to the Evolution』以降の『Road to the Infinity(RTI)』シリーズにも登場する。
サイバーシステム「ネメシス」はアスラーダ同様に個性を持ち、よく話すサイバーシステムである。
ゲーム『新たなる挑戦者』において、声は男声(大塚芳忠)もしくは女声(田中敦子)から選べる仕様になっていたが、後のRTIシリーズでは田中敦子による女声に統一されている。
ν-アスラーダII AKF-0/G II
ゲーム『Road to the Infinity 2』以降に登場。ν-アスラーダAKF-0/Gのアップデート版。

2009年02月07日

上杉禅秀・上杉憲基・上杉憲実・上杉憲忠

上杉 禅秀/上杉 氏憲(うえすぎ ぜんしゅう/うえすぎ うじのり、生年不詳 - 1417年1月27日(応永24年1月10日))は室町時代前期の武士。禅秀は出家名。上杉朝宗の子。憲方、憲秋(憲顕)、憲春、持房(持憲)、快尊、禅欽蔵主、教朝らの父。妻は武田信春の娘。岩松満純、那須資之、千葉兼胤の舅(岳父)にあたる。武蔵守護。関東管領。
レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン

経歴
犬懸上杉家の出身。1409年、父・朝宗の隠居により犬懸上杉家の家督を継ぐ。奥州より侵攻してきた伊達政宗を撃退し、功績を挙げる。1411年2月9日、上杉憲定の後を継いで関東管領に就任し、若年であった鎌倉公方・足利持氏を補佐した。しかし持氏は氏憲を疎ましく思い、氏憲の対立者であった山内上杉氏の上杉憲基を重用するようになる。1415年には氏憲(禅秀)の家臣の不出仕を理由に所領を没収し、禅秀が抗議して管領職を辞任すると、持氏は憲基に継がせた。これに不満を抱いた禅秀は、持氏の叔父足利満隆、その養嗣子足利持仲(持氏の弟)らと共謀の上挙兵して持氏の居館を襲撃し、持氏を駿河に追放して鎌倉を制圧した。

第4代将軍・足利義持は持氏の救援を支持し、北からは上杉房方、西からは今川氏を中心とした幕府軍が攻め寄せる。禅秀は防戦したが、配下の武将たちが次々と離反するに及んで遂に力尽き、1417年1月10日、満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害した(上杉禅秀の乱)。禅秀の子のうち、憲方と憲春、快尊は共に自害したが、憲秋、持房(持憲)、教朝は京に逃れて出家し、後に幕府に仕え永享の乱、結城合戦、享徳の乱などに関わっている。

上杉憲基
上杉 憲基(うえすぎ のりもと、1392年(元中9年/明徳3年) - 1418年2月9日(応永25年1月4日))は室町時代中期の関東管領。上杉憲定の子。佐竹義人の兄。上杉憲春(犬懸上杉家)、上杉憲実は養子。官位は安房守。左京亮。

山内上杉家出身。1412年、父の死により家督を継ぐ。1415年、上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏と対立して関東管領を罷免された後、持氏から関東管領に任じられた。しかし翌1416年、これに不満を抱いた氏憲の反乱(上杉禅秀の乱)が起こり、憲基はこの戦いに敗れて越後の上杉房方を頼って落ち延びた。その後、将軍の足利義持や房方、今川氏らの力を借りて再起を果たし、1417年に氏憲らを滅ぼしている。

しかし戦後、乱の一因を成した責任をとって、同年4月に関東管領職を辞任して剃髪し、伊豆国三島に隠棲したが、同年6月に再び、関東管領職に再任されている。しかし翌年1月4日、27歳の若さで死去した。法号は宗徳院心元海印。

上杉憲実
上杉 憲実(うえすぎ のりざね、応永17年(1410年)? - 文正元年閏2月6日(1466年3月22日)?)は室町時代中期の武将。父は山内上杉氏の生まれで越後上杉氏に入った越後守護上杉房方で、3男。妻は一色氏の娘。子に上杉憲忠、上杉房顕、周清、法興、周泰ほか。幼名を孔雀丸、四郎。安房守。関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興した事で名高い人物である。
越後に生まれる。1416年の鎌倉での上杉禅秀の乱が収束し、翌1418年には、関東管領の上杉憲基(山内上杉氏)の養子となり鎌倉へ下る。関東管領は室町幕府の出先機関の鎌倉府において、鎌倉公方を補佐する要職で、1419年に憲基が没したため10歳で関東管領に就任したとされており、翌1420年には就任が確認できる。上野、伊豆の守護となる。1423年には、反乱した常陸の小栗氏征伐に出陣する。

1428年、4代将軍の将軍足利義持が没し、籤引きで足利義教が6代将軍に就任した。憲実の主君の関東公方足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実はこれを諫止する。持氏が幕府の改元を無視すると、1431年には謝罪の使節を派遣するなど幕府との関係を憂慮し、翌1432年には鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還し、同年に幕府で将軍義教の富士下向が協議されると、憲実は警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、幕府の醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めている。幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が見られ、義教への対抗姿勢を続ける持氏と穏健派の憲実は確執が生じるようになっていたと考えられている。

永享の乱
1436年、幕府の分国である信濃の守護小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、持氏は鎌倉に支援を求めた村上氏を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原氏が勝利する。翌1437年に持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は相模国藤沢へ下り、7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任し、確執は解消されないままとなる。

1438年、6月に持氏の嫡子賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせている。この頃には持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している。8月には鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下る。持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。幕府は関東での事態に対して、持氏討伐の兵を下す。10月、憲実は武蔵国分倍河原に着陣し、先鋒の一色・小笠原軍を破る。鎌倉軍は幕府軍に敗れ、持氏は出家して永安寺(鎌倉市)に入った。憲実は持氏の助命と義久の関東公方就任を幕府に嘆願するが、義教はこれを許さず、憲実に持氏を殺すよう命じた。1439年、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した(永享の乱)。

上杉憲実墓(山口県長門市大寧寺)
出家・隠遁
乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。1440年、結城氏が持氏の遺児を擁して挙兵する(結城合戦)。幕府は憲実に政界復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。その後、憲実は再び隠遁した。

1441年、嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒み、越後守護家を継いだ次男房顕を除く子供たちも出家させる。憲実は子たちに決して還俗せぬよう命じた。1447年、持氏の遺児成氏が関東公方になると、憲実の長男憲忠が還俗して関東管領に就任した。憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は1454年に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまう。

この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。1452年(享徳元)には大内氏を頼って留まり、長門国大寧寺で死去、享年57。

人物
憲実は儒学に志篤く、1432年以降には足利学校の再興に関与し、五経など書籍の寄進を行うなど文化事業に大きな功績を残している。
幼い頃から聡明さは知られていたが、関東管領就任から数年は家宰の長尾景政が政務を代行していた。
関東管領という役職は、鎌倉公方の部下でありながら、任命権は京都の将軍が有するというものであった。このことが、京都の幕府(義教)と、鎌倉府(持氏)の狭間で調停役となった憲実の立場を、一層難しいものにした。
儒学に志篤いが故に、主君である持氏を結果的にしろ裏切ったことを激しく後悔し、永享の乱後に自害を試みたとされている(『永享記』)。その後も幕府による再三の復帰要請の拒否、諸国遍歴など、厭世的行動を見せている。
大寧寺で死去した際、当代屈指の画僧宗湛に「人皆その風を望み、敬せざる無し、忽ち逝去を聞き、感すべき慕うべきなり」(『蔭涼軒日録』)と評されており、彼の人望が厚かったことが現れている。

上杉憲忠
上杉 憲忠(うえすぎ のりただ、1433年(永享5年) - 1455年1月15日(享徳3年12月27日))は、室町時代中期の武将。上杉憲実の長男。官位は右京亮。山内上杉氏出身。幼名は竜忠。関東管領に就任するが、鎌倉公方足利成氏に暗殺されて享徳の乱のきっかけを作った。

1439年、父の憲実が永享の乱でかつての主君・足利持氏を滅ぼしたことに対しての自責の念にかられて出家したとき、共に出家した。このため山内上杉氏が当主不在となったため、家宰の長尾景仲が困り果てて1446年、憲実に復帰を要請した。憲実は先に京都に出仕していた次男の上杉房顕を復帰させようとしたが、このとき長男の竜忠が還俗して憲忠と名乗り、山内上杉氏の家督を継いだのである。房顕以外の息子は全て僧侶とするつもりであった憲実はこれに激怒して、憲忠を義絶している。しかし景仲らが憲忠の家督を支持したため、1448年11月には関東管領に就任するに至ったのである。

ところが1449年、持氏の遺児である足利成氏(永寿王)が鎌倉公方として復帰する。成氏は永享の乱で父を殺された経緯から憲実とその息子を激しく恨んでおり、憲忠とは犬猿の仲にあった。このため1450年、長尾景仲は上杉持朝と共謀して成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう。憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模国七沢に蟄居を余儀なくされた。その後、成氏に罪を許されて復帰したが、成氏と憲忠の対立はさらに深まり、1454年12月27日に鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城氏家臣多賀谷高経によって謀殺されてしまったのである。享年22。法号は興雲院長釣道洪。

父の憲実はこれを知ったとき、大いに嘆いたと言われている。

上杉 房顕
上杉 房顕(うえすぎ ふさあき、永享7年(1435年) -寛正7年2月12日(1466年2月26日))は、室町時代中期の関東管領・上杉氏当主。上杉憲実の子で、上杉憲忠の弟。官位は兵部少輔。上杉顕定の養父。幼名は龍春。通称は八郎。

永享の乱と結城合戦に勝利した上杉憲実は房顕以外の子供を全て出家させた。房顕はしばらく越後国に留め置かれたが文安元年(1444年)に憲実から越後国と丹波国の所領を与えられ、上洛して将軍足利義政の近臣として仕えた。1454年に兄が鎌倉公方の足利成氏によって謀殺されると、その弟に当たるという経緯などから1455年3月に新たな関東管領に任命され、成氏征討軍の大将として関東へ下向して同年4月頃には上野国平井城へ入った。

それ以降は鎌倉から古河へと拠点を変えた成氏と何度も交戦したが、1459年には武蔵国太田庄の戦いで成氏軍の前に大敗を喫した。1463年には、房顕の右腕であった山内上杉家の家宰の長尾景仲が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが、幕府に拒絶された。1466年、五十子にて陣没した。享年32。法号:大光院清岳道純。

房顕の度重なる敗退は、関東管領家の衰退にもつながったのである

上杉 顕定
上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) は、室町時代後期・戦国時代の人物。越後守護上杉氏の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。
寛正7年(1466年)2月、関東管領の上杉房顕が武蔵国五十子にて陣没したが男子がいなかった。家宰の長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして上杉一族の重鎮である越後の上杉房定の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。このため同年10月には室町幕府将軍足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、結局房定の次男である龍若(顕定)が山内上杉家の家督を継いで当主となった。

享徳・長享の争乱
時は享徳の乱の最中であり、古河公方の足利成氏と関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、文明3年(1471年)には古河御所を占領してこれに勝利している。しかし文明8年(1476年)に有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り(長尾景春の乱)、翌文明9年(1477年)正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。この乱の背景には顕定の入嗣前に既に顕在化していた上杉氏体制内部の矛盾、すなわち権力闘争があったとされる。 更にこの乱に乗じて攻め入った成氏軍に上野国白井付近まで追い詰められた顕定と扇谷上杉定正は、文明10年(1478年)正月に幕府と成氏の和睦を取り持つことを条件に古河公方と和睦した。その後、景春の反乱軍は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになった。

文明14年(1482年)に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立し30年に及んだ享徳の乱は終結したが、顕定は上杉定正と対立し、定正が道灌を謀殺したのを契機に長享元年(1487年)に長享の乱が起こる。長享2年(1488年)に両者の抗争は本格化し、「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、関東管領の山内家とその分家的存在の扇谷家とでは実力が隔絶しており、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。

明応2年(1493年)、もとは山内上杉氏の領国で堀越公方に譲られていた伊豆国へ伊勢宗瑞が討ち入るという事件が起こった。明応3年(1494年)に両上杉の抗争が再発すると、上杉定正は今川・伊勢の軍を相模・武蔵へ招き入れたが、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死したため今川・伊勢の軍勢は撤退した。 長享の乱初期に扇谷上杉氏を支援していた古河公方もこの頃には一転して山内上杉方となっていた。明応5年(1496年)には顕定の軍勢は相模に攻め入り、7月に伊勢弥次郎の立て籠もる小田原城を自落させた。この戦いで相模国の西郡は「一変」したという。その後、東郡へ軍勢を進め上田氏の実田要害を囲み、更に定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて河越に軍を進めた。明応6年(1497年)に顕定は河越城に対する前線基地として武蔵上戸(現在の河越館跡)に陣を置き古河公方足利政氏を招いた。政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還するが、上戸陣はその後も7年にわたり山内上杉氏の陣所として機能した。

永正元年(1504年)に駿河守護今川氏親・伊勢宗瑞の援軍を再びえた上杉朝良と戦うが(立河原の戦い)、2000人余りの死者を出して大敗する。しかし実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に及び、翌年には朝良を河越城に攻めて降伏させ、朝良の江戸隠居を条件に和睦した。長享の乱における事実上の勝利宣言といえる。

古河公方との関係と永正の乱
明応3年(1494年)に古河公方と結びついて以来、顕定は東国における公方?管領体制の再構築を図っていた。特に足利政氏とは、礼的な秩序における待遇の向上を実現させ、更には政氏の弟[3](上杉顕実)を養子として迎え入れるなどして密接な関係を築いた。顕実はそれより以前に養子となっていた憲房を差し置き、顕定の正統な家督後継者に据えられたとみられている。後に政氏と子・高氏(後の高基)が不和となると、顕定はこれを憂えて出家し両者の仲介に立った。

古河公方の内乱を収めた直後の永正6年(1509年)7月、顕定は養子の憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放した。 この侵攻は一般的に、永正4年(1507年)に顕定の弟で越後国の守護を務めていた上杉房能が守護代の為景を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの報復と捉えられている[4]。 片桐昭彦はこれに加えて越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと推測する[5]。 また、山田邦明は、顕定が房能方であった色部氏と為景の和睦の道を探っていたり、伊達氏に宛てて「定実に対して一切の余儀(=遺恨)は無い」と伝えていることから[6]、永正5年の段階において顕定と為景は決定的な対立関係に無かったとして、直接的な契機を山内上杉氏の所領である妻有庄へ為景方の信濃衆が攻め入ったことに求める[7]。 ともあれ、房能の仇討ちを大義名分として越後に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。

しかし顕定の越後統治は非常に強硬でうまくいかず、国人の反発を受けた。翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。翌永正7年(1510年)6月20日の長森原の戦いで敵の援軍であった高梨政盛に敗北し、衆寡敵せずして自刃、享年57[8]。

管領塚
新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承をもつ塚が点在していたが(下原百塚)、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ顕定の墓と伝えられている。近代に行われた一部の発掘調査では鎧通しが出土しており、更には武具や人骨も出土したという話もある。現在、管領塚は史跡公園として整備されているが元の塚からは移築されたものである

2009年01月22日

ガンダーラ

ガンダーラ(Gandhāra, Gandhara, Ghandara, Ghandahra, Chandahara, ペルシア語; Gandara)は、現在のアフガニスタン東部、およびパキスタン北西部にあった古代王国。カブール河北岸に位置し、その東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部まで達していた。(Political History of Ancient India, 1996, P151)

ガンダーラの王国は紀元前6世紀?11世紀の間存続し、1世紀?5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。1021年ガズナ朝のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。イスラム支配下ではラホール、またはカブールが周辺地域の中心となり、ムガル帝国の支配下ではカブール州の一部とされた。

ガンダーラはベーダ時代、カブール河岸からインダス河口までをその疆域としていた。その領域はペシャワール渓谷として知られている。のちの時代にガンダーラ人はインダス河を越え、パキスタンのパンジャブ州北西部をも領土に含めた。ペルシアと中央アジアの重要な交通路であったガンダーラは国際的な商業都市として繁栄した。時代によって、ペシャワール渓谷とタクシラ、スワット渓谷をまとめてガンダーラの領域に含めることがあるが、中心地は常にペシャワール渓谷であった。王国の首都はチャールサダ、タクシラ、ペシャワール、末期にはインダスのフントに置かれた。

歴史

アケメネス朝ペルシャの支配
ガンダーラの名前は『リグ・ヴェーダ』にも現れているが、紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャのキュロス大王、もしくはダレイオス1世によってその版図に組み込まれたことが分かっており、ペルセポリスのダレイオス1世碑には"GADARA"という名前が記録されている。ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』にはペルシャ帝国の20の属領が記されているが、そこではガンダーラはPaktuikeまたはペシャワール渓谷として記録されている。

アレクサンドロス大王の東征と、マウリヤ朝の支配
紀元前380年頃までにペルシャの支配は弱まり、多くの小王国がガンダーラを分割支配した。紀元前327年にはアレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻したが、大王はこの地に1年も留まらなかった。同じ頃、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収めた。その後、1世紀半にわたりマウリヤ朝がこの地を支配した。チャンドラグプタの孫アショーカ王は熱心な仏教徒となり、ガンダーラに多くの仏塔を建立した。その後、マウリヤ朝が衰退してインド亜大陸に退くと、ギリシャ系のバクトリアがこの地に勢力を拡張した。紀元前185年頃、ガンダーラとパンジャーブはバクトリア王デメトリウスにより征服された。その後、バクトリア分裂の後、ガンダーラ地方はバクトリア内部での独立した政権が支配した。

メナンドロス王とクシャーナ朝の支配
メナンドロスはガンダーラの最も有名な王である。仏教徒となった彼は『ミリンダ王の問い』として仏典に描かれ、多くの仏教徒によく知られる存在となった。紀元前140年頃にはメナンドロス王は死に、クシャーナ朝による支配が始まった。同じく、パルティア系民族により圧迫され、イラン高原からサカ族がガンダーラ地方へ移住した。現在のパキスタン北部、アフガニスタンで使用されているパシュトー語はこのサカ族の言語を起源としている。紀元前90年にはパルティアはイラン東部を支配下に収め、紀元前50年頃にはアフガニスタンに残る最後のギリシャ人勢力を駆逐した。パルティアはガンダーラにギリシャ的な芸術様式を持ち込んだギリシア系住民を一掃した。我々がガンダーラ美術の発展を見るのはこのときからである(紀元前50年?75年)。

チモール ジョリティ ジルバ マンボ サーチガム ロズウ いととく ペクトル オフロ スマトラ ネック ショルダ バンジョ キャリア ハマユ タッグ ユーコン JAPAN いちにいさん 天徳 バキュ バンパイア コンヒ ナビミット ツツジ コート おおだま マングース ビーバー ホルダー しょく コチュカル パラペ フレー ビエンナ フリー ライス 王の行進 マイクラ レジス サンセ ドラマ オール ビショ きたひろ ナンプレ クロス マモモ モノク リュート

クシャーナ朝治世下での黄金期
パルティアは紀元75年には中央アジアからのトルコ系遊牧民であるクシャーナ朝によってバクトリアへと移動し、クシャーナ人はその地に約一世紀のあいだとどまった。クシャーナ朝の支配下でガンダーラは黄金時代を迎える。ペシャワール渓谷とタクシラにはこの時代の仏塔と仏寺の遺構が数多く見られる。カニシカ王(紀元128年-151年)統治下にガンダーラ美術は繁栄し、多くの仏教建造物が建立された。カニシカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることになった最大の功労者だった。王のもとで、ガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。ペシャワールには120メートルもの巨大な仏塔が建立されたほか、数多くの仏教遺跡が残り、後世、東アジアからの巡礼地として神聖視された。カニシカの死後、王国は東方領土を失い始め、西方ではサーサーン朝の支配下に入った。しかし、クシャン族の族長の元で新しい仏塔は建立され続け、旧来のものは拡張された。仏寺には大仏像が建てられ、断崖には磨崖仏が彫られた。

衰退
450年頃、匈奴が侵入し、ヒンドゥー教が一時盛んとなったが、サーサーン朝が再び盛り返し、568年には匈奴を駆逐した。644年にサーサーン朝がイスラム帝国に敗れると、ガンダーラはテュルク系民族によって支配され、ふたたび仏教が広まった。多くの中国からの仏教巡礼者による旅行記はガンダーラがこの数世紀の間に大きく変容したと記録している。次第にヒンズー教が隆盛となり、仏教寺院は次々と放棄されていった。その後、イスラム勢力が侵入し、ガンダーラの名は忘れられていった。

ガンダーラ美術
ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術として有名である。開始時期はパルティア治世の紀元前50年-紀元75年とされ、クシャーナ朝治世の1世紀?5世紀にその隆盛を極めた。5世紀には匈奴が侵入し、その繁栄は終わりを告げた。

2009年01月15日

天狗(てんぐ)

約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

天狗(てんぐ)は、日本の伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。
また後白河天皇の異名でもあった。

元来は中国の物怪で、流星または彗星の尾の流れる様子が狗(いぬ)に似ていることから、天の狗、すなわち天狗と呼ばれた。また、中国の奇書『山海経』西山経3巻の章莪山の項に、「獣あり。その状狸(山猫を指すと考えられる)の如く、白い首、名は天狗。その声は榴榴の様。凶をふせぐによろし」とあるように天狐、アナグマにも例えられた。

なお仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念経』19には「一切身分光燄騰赫。見此相者皆言憂流迦下。魏言天狗下」とあり、これは古代インドのサンスクリット語のUlkā(漢訳音写:憂流迦)という彗星の名を、天狗と翻訳したものである。

日本において天狗の言葉が初めて見られるのは『日本書紀』で、634年、怪音をたてて空を飛来するもの(かなり地表まで落下した流星か)を唐から来た人が、「流星にあらず、これ天狗アマキツネなり」と呼んだという記載がある。奈良〜平安時代初期における天狗とは、『山海経』の形状の通り天狐であり、やはり彗星あるいは流星を指したと考えられる。

付会と俗信
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役行者より行われていた山岳信仰とも相まっていった。そして鎌倉時代になると、修験道の修験僧(山伏)をも天狗と呼ぶようになった。これは、その風体や修行法が独特であることから、既成の宗派から軽蔑されて呼んだものである。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗のイメージに付託した。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓(ぐひん)、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。

したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったもので、本来まったく性質の異なったものが習合された俗信であるとされる。

事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶(とび)のイメージで捉えられることも多かった。さらに尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草子』として描写作成された。ここには当時の興福寺や東大寺など7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが、その初期の原型であり、おそらく室町時代初期以降に変化したものと考えられている。

『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、験力を誇示する天台僧らに、仏教の超越性を証明する為の標的とされ、『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。

天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴である。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。