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発掘 発見された木簡と価値

居延漢簡 - 前述。新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。
馬圏湾漢簡 - 1979年、敦煌市西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。
走馬楼呉簡 - 1996年、長江以南、湖南省長沙市で発見される。三国時代呉の嘉禾年間(232年-237年)の紀年を含む、木簡が数万点、竹簡は約2000点が出土した。その多くは、契約文書類である。
敦煌懸泉置木簡 - 敦煌の東方にある、前漢中頃より魏晋代の郵便施設である懸泉置から出土した、20000点余の木簡。

日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていた。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988?1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものだが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多い。

日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で奈良国立文化財研究所が平城京木簡の分類に際してとった13または18の型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、短冊形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、長さ20センチメートルから30センチメートル、幅2センチメートルから4センチメートルが多いが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける。用途と形状は密接にかかわっている。

文書木簡は、7世紀後半から、奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価で需要を満たすに足りなかったためと考えられる。日本では竹簡は作られなかった。
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文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書と、日常事務の帳票の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。文書木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。

付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものである。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札と、保管される物に付けておく物品付札があった。当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、これを貢進物木簡(貢進物付札)と呼ぶ。要は荷札なのだが、この時代のものは量が豊富なだけでなく、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。

その他には習字、落書き、呪符、将棋の駒まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。題箋(題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。

10世紀より後になると文書木簡は見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、座の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。

朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで1975年に新羅の王宮、月城の雁鴨池から40点が出土し、三国時代と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。

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2009年05月31日 09:06に投稿されたエントリーのページです。

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